良寛は、江戸時代の後期(1758)に越後出雲崎の名主橘屋山本家の長男として生まれ、幼い頃から学問に親しみました。22歳から岡山県の円通寺に赴いて仏道修行に励み、35歳頃で越後に帰りました。
そして空庵を転々とした後、五合庵に定住し、その後乙子庵に住んだ後、和島の木村家草庵に移り、74歳で示寂しました。
このように、良寛は円通寺を離れてからは、生涯にわたって寺を持たず、貧しいながらも清らかな生き方を通しました。
そうした中で、多くの詩や歌を詠み、それを書き遺した作品は、日本美の極致とまで絶賛されて、今に伝わっています。
又、子供達と遊んだ等の逸話から慈愛に満ちたお人柄は現代の人達にも広く親しまれています。
年号 | 西暦 | 歳 | 記事 |
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宝暦 八 | 1758 | 1 | 越後、出雲崎の名主橘屋山本家の長男に生まれる。 |
明和 二 | 1765 | 8 | 尼瀬にある曹洞宗光照寺の寺子屋に通う。 |
明和 七 | 1770 | 13 | 地蔵堂の漢学塾、三峰館にて大森子陽に学ぶ。 |
安永 四 | 1775 | 18 | 三峰館を出て、名主見習役となるが、7月18日に生家を出奔。光照寺にて自ら髪を剃ったといわれる。 |
安永 八 | 1779 | 22 | 光照寺に来錫した備中玉島の曹洞宗円通寺、国仙和尚に従い得度。随行して円通寺に赴き、本格的な仏道修行に入る。 |
天明 三 | 1783 | 26 | 母の秀子逝去。 |
天明 五 | 1785 | 28 | 亡母三回忌に一時帰郷。 紫雲寺村観音院で宗龍和尚に想見。 |
寛政 二 | 1790 | 33 | 国仙和尚から印可の偈を授かる。翌年、和尚の示寂を機に円通寺を出る。 |
寛政 四 | 1792 | 35 | 帰郷(39歳の説もある)。以降、寺泊郷本の空庵他、各地に仮寓する。 |
寛政 七 | 1795 | 38 | 父の以南、京都の桂川に身を投ず。 |
寛政 八 | 1796 | 39 | 以南の一回忌法要で上洛。この時に同郷生れの僧、大忍魯仙と逢ったのではないか |
享和 一 | 1801 | 44 | 江戸の国学者、大村光枝等が五合庵に良寛を訪ねる。 |
文化 一 | 1804 | 47 | この頃から五合庵に定住。 |
文化 四 | 1807 | 50 | この頃から「秋萩帖」を学び始めたか。 懐素の「自叙帖」を学び始めたのもこの頃か。 友人、三輪左一没。西照坊からの三輪宛書簡が残る。 |
文化 五 | 1808 | 51 | 法友、有願没。 |
文化 六 | 1809 | 52 | 江戸の漢学者、亀田鵬斉と交友。 |
文化 七 | 1810 | 53 | 弟,由之に家財取上げ、所払いの判決。 「人も三十四十を越ては」の書簡を送る。 |
文化 八 | 1811 | 54 | この頃自筆詩集「草堂集貫華」成る。「小楷詩巻」もこれに続いたであろう。 |
文化 九 | 1812 | 55 | 三峰館の学友、富取之則没。 |
文化一三 | 1816 | 59 | 遍澄に付き添われて乙子草庵に移住。 最後の自筆詩集「草堂集」はこの頃に成るか。 |
文化一四 | 1817 | 60 | 維経尼宛「君欲求蔵経」書簡はこの年の暮に。 |
文政 一 | 1818 | 61 | 由之より道元の「傘松道詠集」を贈られる。 |
文政 二 | 1819 | 62 | この頃自筆歌集「布留散東」成る。 この頃、阿部定珍の「万葉集校異」に「万葉集略解」を参考にして朱墨で注を書き込む。 |
文政 四 | 1820 | 64 | この年号の書入れがある長歌「月の兎」の遺墨がある。 万葉短歌抄「あきのゝ」はこの頃の作か。 字の形から「法華転」もこの頃の作と思える。 |
文政 九 | 1826 | 69 | 和島の木村家庵室に移住。 以降、条幅等の遺墨名品が書かれる。 |
文政一〇 | 1827 | 70 | 木村家庵室で貞心尼と初見。 |
文政一一 | 1828 | 71 | 三条大震災が起こる。この時の書簡と詩が遺る。 |
天保 二 | 1831 | 74 | 1月6日、木村家庵室で由之、貞心尼等に看取られながら示寂。8日に葬儀。 |