良寛に親しむ

 良寛は何をした人ですかと聞かれたら、多くの人達に親しまれ敬われたお坊さんと答えたいです。お坊さんと言っても、普通に考えられているお坊さんとは大分変って居られ、多くのお寺の和尚さんのようにお葬式の時に立派な袈裟を着て経を読むということはされませんでした。只、托鉢によって生計を保たれた良寛は、生きて居られた時から亡くなられて百八十年以上も過ぎた今の時代までを通して、実に多くの人達に親しまれ敬われて来られました。それでは、どうして良寛はそんなに多くの人達に親しまれ敬われるのでしょうか。それは、良寛に親しみますと、その人の心が和むからだと思います。

 良寛は、老若男女や貧富等によって人を分け隔てする事が無く、誰とでも、優しく温かい気持ちで接して居られました。子供達とは子供の気持ちで一緒に遊び、夕方に野良仕事から帰って来た農夫と濁り酒を酌み、裕福な人とは、説教や道徳の話はしないで、詩や歌を詠み交わす等々、良寛は偉ぶったり気取ったりすることが無いので、良寛と接した人は皆、心が和んで幸せな気持ちになったようです。良寛が近くに居られるだけで、廻りの人達は穏やかに和んだとも言われています。

 このように、良寛と直接出会った人達は、良寛に備わった穏やかな気質や温かい心遣いに触れることが出来ました。幸いにも、良寛は生前に、自身が詠まれた漢詩、和歌、俳句等を書かれた作品と書簡とを沢山遺されています。これらの作品には良寛の温かい心遣いが込められています。ですから、良寛が亡くなられてからも、良寛の遺された作品を通して良寛に親しみますと、その人の心は和み、幸せな気持ちになることが出来るのです。そして、その人は、自分も良寛の考え方や生き方を少しでも見習い、更に、他の人達とも、良寛のことを語り合いたいと思って来られたと思います。

 このように多くの人達に親しまれ敬われる良寛のお人柄はどのようにして育まれたのでしょうか。

 そもそも、良寛は庄屋という裕福な家の長男として生まれました。幼い時から学問が好きで、多くの書物を学び、その内容を良く理解し、記憶をして居られました。それが、後の良寛の作品に生かされています。特に寺子屋に通っていた頃から、お釈迦さまの教えには深い関心を抱かれたようで、十八歳の時に自ら仏門に入り、二十二歳からは岡山県の円通寺に赴いて仏道の勉学と修行に励まれました。この時に、お釈迦さまの説かれた、物事の在り方の本質というものを確りと捉えられたと思います。良寛の遺された書物から、この物事の在り方の本質とは、物事の全てが、そのままで勝れた働きを備えていて、人が自身の損得で良し悪しを判断したものは本質ではないということが分かります。このように物事の在り方の本質を捉えられた良寛は、他の人にもそのことを知って貰いたいと思って、生まれ故郷の越後に帰って来られたのでしょう。この物事の在り方の本質を知った上で、周りの物事を見ますと、人々は本当に素晴らしい世界に生きていることに気が付き、気持に余裕が生じて日々の生活は楽しく成ります。

 又、お釈迦さまの説かれた教えを多くの人に弘める役目を果たす人をお坊さんと言いますが、良寛は、お坊さんとは、托鉢によって生計を保つことが、お釈迦さま以来続いている正しい生き方であると考えられたようです。ですから、帰郷後は、立派なお寺には住まず、五合庵等の空いている粗末な小屋を借りて雨露を凌がれました。そうした生き方の中で、良寛は、心に抱かれた物事の在り方についての想いを、詩や歌等に述べ、それを素晴らしい書作品に遺こして来られました。こうした良寛の作品の多くは、表現が穏やかで分かり易く、和歌では、日本人が古来大事にしてきた和みの心を、古くからの言葉使いで詠まれていて、調べに格調があります。良寛の漢詩についても、訓読みで味わいますと日本人の心に馴染みます。ですから、これらの作品に接した人に、良寛の想いが通じて、その人の心も和み、作品は大事に保管されて来ました。

 ところで、良寛は、禅僧、詩人、歌人、書家と言われることがよくあります。確かに、良寛は、禅宗のお寺で仏道の勉学と修業をされましたが、帰郷後は宗派に拘って居られません。それは、宗派はお釈迦さまが亡くなられ後の人達が時代や所の状況に応じて作られた組織であり、自分は本当のお釈迦さまの教えに則った生き方を通そうと考えられたからでしょう。又、漢詩、和歌、書の何れの道にも精通して居られ、優れた作品を多く遺して居られますが、それらを生業とはして居られませんし、詩人、歌人、書家と言われる玄人肌の人達を嫌って居られました。ですから、良寛は、禅僧、詩人、歌人、書家と言われることを嬉しく思われないでしょう。しかし、先にも言いましたが、良寛は、お釈迦さまの教えを確りと学んで、その教えに則った生き方を通されたお坊さんです。良寛自身も多くの作品に、お釈迦さまのお弟子さんを意味する「釈良寛」と「沙門良寛」の署名を書かれています。良寛は、帰郷後の間も無い頃には、お釈迦さまの説かれた物事の在り方の本質というものを「法華讃」や幾つかの漢詩の中で述べて居られますが、これらを周りの人達に理解してもらうことは非常に難しいと思われたようです。お坊さんがお釈迦さまの説かれた教えを人々に弘める方法に、布施(ふせ)、愛語(あいご)、利(り)行(ぎょう)、同事(どうじ)という四(し)摂事(しょうじ)が有ります。道元さんが遺された「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」に載る、その内の「愛語」を良寛が謹書された作品はよく知られています。良寛は、難しい言語を使ってお釈迦さまの教えを弘めるのではなく、人々と同じ立場で交わる、所謂、同事の行いを通して、お釈迦さまの説かれた教えを人々に汲み取って貰おうと考えられたのではないでしょうか。そして、人々に馴染みの深い和歌と優しい表現の漢詩を心温まる文字で書くことも、法を弘める道に適うと考えられたと思います。即ち、良寛は、和歌や漢詩を、更に書も、心の中に抱いた想いを表す手段と考え、それぞれの分野で、古来の人達が打ち立てて来た、それ等の在るべき形を追求され、更に自身の納得できる良寛調と言われる領域に到達されたと思います。

 良寛に近づきますと、学問の宝庫に案内して貰えます。と言いますのは、良寛自身が非常に幅広い分野に亘って学んで居られ、それ等が良寛の作品に取り込まれています。しかし、良寛の作品を理解する上で注意したいことは、良寛が仏語、漢詩、和歌などに引用する語彙には、従来、もしくは出典で使われている意味や解釈に捉われていないものが多いことです。即ち、良寛はその語彙を以って、自身の作品の響きを整えていますので、その語彙を使っていることから、良寛は出典の著者から、考え方などの影響を受け、それを引き継いでいると解釈しますと、本当の良寛の物事の捉え方を誤って理解することになります。このように、良寛の作品を理解するには難しい所が沢山あります。特に、良寛がお釈迦さまの教えを説かれた「法華讃」「法華転」や仏法に係る漢詩等には、馴染みの薄い仏語や禅語が沢山使われていて難しいです。しかし、初めは分かる所から近づき、更に、ここで良寛は何を語って居られるのであろうかという関心が湧きましたら、それに関連する書物等を調べられたら良いと思います。少しでも分かって来ますと、その次、その次と、段々に学問の域が広く深くなり、そのことが又、皆さんの歓びとなって、益々良寛への親しみが湧いて来るでしょう。

 それでは、皆さんも直接良寛の作品を手に取って、良寛に親しんで下さい。先ずは良寛の詠まれた和歌から近づいたら如何でしょうか。しかし、良寛は和歌を変体仮名で書かれていますので、遺墨は慣れないと読めません。良寛の「ふるさと」と題した自筆歌集の復刻版が出版されていて、現代仮名漢字の訳文が付いていますので、そちらから始めたらよいと思います。更に、幾つかの自筆歌集と歌巻と多くの遺墨が伝わり、良寛歌集も種々出版されていますので、テキストに不足はありません。

 漢詩についても、良寛の自筆詩集が数点伝わり、夥しい数の遺墨が条幅や屏風等に表装されていて、その複製や復刻版と良寛詩集も沢山出版されています。皆さんの好み又は近付き易いものから始められたら良いでしょう。良寛の生涯やお人柄について述べた書籍も多く出版されていますので、お好みの作品を選んで目を通されたら如何でしょうか。

 楽しみながら良寛に親しみ、皆さん自身も日々の生活、人生を楽しまれる事をお勧め致します。